天地(あめつち)の 神にぞ祈る・・・・・
2018年 02月 18日
立春以来、すっかり感覚が変化した 榊原希紗です。
ご神事を粛々と行われている方々が、この日本國だけでもたくさんいらっしゃいます。
「統合と分離」(またはその逆)である2018年、
それはさまざまな場に現れています。
政治、国交、経済・・・etc。
そして、ご神事の世界においても、それはかなり
顕著に各人に示されているように思います。
祈り人、または各人のご神事の割り振りにより
呼ばれる神社が、人に寄りかなり細分化されてきているのです。
今まで、呼ばれた神社には、時間がかかっても
(遠方などで)伺い、そのご神意に沿わせて頂いてきました。
現在は、遠い近いは別として
お祀りされる神様別に、呼ばれているような感じです。
現在、呼ばれる神社は、自宅から約2時間半の場所にあります。
小さな神社ですが、神職さんと巫女さんが常駐なさっています。
巫女さんとは、初訪の日に親しくなり
色々教えて頂いています。
実はその神社のキーパーソンは、彼女なんだと感じています。
今、希紗が関わらせて頂いている内容は
時期が来るまで、表には出せません(ごめんなさい)。
ただ、平和裏に事が進みますように、と
それだけを祈りつつ、粛々とことにあたっています。
巫女舞に『浦安の舞』という舞があります。
1940年に創設された舞です。
1940年という年は、初めての天皇である神武天皇から数える
皇紀において、2600年という記念する年でした。
昭和天皇が、昭和8年に讀んだとされる
<天地(あめつち)の 神にぞ祈る朝なぎの
海のごとくに 並たたぬ世を>
という歌詞が歌われます。
この、浦安というのは、巨大遊園地のある場所のことを指すのではなく
浦 とは 「こころ」の意味の古語
安 とは その言葉の通り、やすらか。
こころやすらけく。平和、という意味になります。
<天と地すべての神様にお祈りします。
どうか世界が朝凪の波の立たない海のように穏やかであり平和でありますように>
どうか世界が朝凪の波の立たない海のように穏やかであり平和でありますように>
その神社の巫女さんとともに、
巫女、と言ったら石を投げられそうな私ですが
(大先輩の巫女さんは、70歳で舞ったというから、
まだまだいけます。。いけるはず)
まつりで、浦安の舞を奉納させて頂けたら、と
粛々と計画を進めています。
それも、今回のご神事の一端となります。
感覚の変化、ですが
まず、既視感というのか、非現実感というのか
肉体はここに(例えば家に)あるのに
精神だけ、別な処に行ってしまっている感覚が
ひと月くらい続きました。
その間に立春が入ります。
一旦、精神が肉体に沿い、しかしそれは一日くらいで
翌日からはまた、肉体と精神が分離した感覚でした。
しかし、それは肉体に落ち着く以前とは、
違う場所に精神が行っている感じでした。
立春以降、何だか人が愛しいのです。
道端でバスを待っている知らないおばさんにさえ
「どこまでですか?送ります」
と声を掛けたい感覚です。
人の感情が、何も言わなくても理解できます。
先日も、表通りを近所に住む先輩が歩いていくのが見え
何だか気持ちが乱れてる、と感じて表に飛び出し
先輩なのに、つい名前呼び捨てして
「なにかあったんでしょ!」
と聞くと、母親とちょっとね、と感情を吐き出す。
ご老人は、私たちと同じペースでは動けないのよ、
そう理解してあげようよ、と伝えると
「希紗~!年は上だけど、あたしが妹じゃ~ん!」
よしよし、と抱きしめてあげました。
ひとはみんな、それぞれ愛しい。
ひとはみんな、それぞれの場所で、それぞれひとりしかいない
自分の役割を行っている。
心に苦しい思いを持っている方もあるかもしれない。
私の友人も、毎日死ぬことばかり考えている、
という人が居たりする。
苦しい思いは判ります。
自分も鬱になりかけたことがありました。
苦しい思いに支配されてしまう事も判ります。
けれど、今生まれたての新生児さえ、
残りの人生の時間が、必ずしも80年あるとは限らない。
自分も平均寿命まで生きているのかどうか、解らない。
そう考えると、悩んで止まっている時間がないのです。
勿体ないのです。
したいことがありすぎて。
愛しいものがありすぎて。
今日も私は、神楽鈴を振ります。
天地(あめつち)の 神にぞ祈る朝なぎの・・・・と
小さな声で、CDに合わせて。
by Clessidra
| 2018-02-18 16:52
| スピリチュアル